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80年代、セゾンはなぜ、あれほど映画に夢中だったのか

シネ・ヴィヴァン六本木上映作品のパンフレット、シネセゾン渋谷上映作品のパンフレット

今、「セゾン」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。クレジットカードの「セゾンカード」を思い浮かべる人が多いかもしれません。

しかし1980年代、「セゾン」という名前には、もっと特別な響きがありました。

西武百貨店の美術館や書店リブロへ行けば、それまで知らなかったアートや本に出会える。六本木WAVEには世界中から集められた音楽が並び、その地下のシネ・ヴィヴァン六本木では、普通の映画館ではなかなか出会えない作品が上映されている。

「セゾン」という名前そのものが、どこか先端カルチャーのブランドのように感じられた時代でした。

では、百貨店を中心に発展した一企業グループが、なぜこれほどまで映画に夢中になったのでしょうか。

堤清二が考えた「時代精神の拠点」

セゾン文化を語るうえで欠かせない人物が、西武百貨店を率いた堤清二です。詩人・辻井喬としても活動した堤は、百貨店を単に商品を販売する場所ではなく、新しい文化や生活を提案する場所へ変えていきました。

1975年に西武美術館を開いた際、堤は美術館を「時代精神」の拠点として位置づけています。美術品を収蔵して見せるだけではなく、街の中、人々の生活の中にありながら、その時代に生まれている新しい表現を紹介する場所を目指していました。

1979年には池袋に多目的スペース「スタジオ200」が開館。美術だけでなく、映像、音楽、演劇、舞踏、パフォーマンスへと領域を広げていきます。そして、その文化活動は美術館の中だけには収まりませんでした。

「西武に行けば、何か知らないものに出会える」

私自身、西武百貨店の美術館やリブロにはよく通いました。

今でも覚えているのが、孤独感を漂わせた顔のない人物を、抽象彫刻のように描いたマーク・コスタビです。1986年には西武百貨店渋谷店のシードホールで「マーク・コスタビ展」が開催され、後にはリブロポートから画集も出版されました。

まだインターネットなどない時代です。海外で何が起きているのか、新しい表現者は誰なのか、自分から情報を探そうとしても限界がありました。

そんな時代に、西武やセゾンの施設へ行けば、「こんな人がいる」「こんな表現がある」と向こうから提示してくれた。振り返ってみれば、世界のどこかで生まれている面白いものを選んで紹介してくれる、巨大なキュレーターのような存在だったのかもしれません。

なぜ、そこから「映画」だったのか

スタジオ200では実験映画やビデオアートなども積極的に扱っていました。そして1983年、六本木WAVEの地下スペースをどう使うか検討した際、ライブハウス案と映画館案が浮上します。

当時の文化事業担当者の証言によれば、堤清二自身が、さらに映画関連事業を展開したいという意向を持っていました。文化事業部も映画館を推し、シネ・ヴィヴァン六本木が誕生します。

つまり、映画はセゾンの文化事業に偶然加わったものではありませんでした。堤自身が、その可能性に強い関心を持っていたことが分かります。

では、堤は映画のどこに可能性を感じていたのでしょうか。シネ・ヴィヴァンやシネセゾンの事業について、後年の著作から、堤が映画という表現をどう捉えていたのかを知る手掛かりはあります。

2001年、辻井喬名義で刊行した『伝統の創造力』の中で、堤は映画についても触れています。その内容を要約すると、映画が単なる「娯楽商品」にとどまればテレビとの競争の中で淘汰される一方、人間が芸術を求める限り「映画芸術」は生き残る。そして芸術には、詩情と現実への批判性が必要だ、という考えでした。

これはシネ・ヴィヴァンが誕生した1980年代から20年近く後に書かれたものなので、当時映画事業へ進出した理由を直接説明する言葉ではありません。しかし、堤が映画を単なる娯楽商品ではなく、時代や社会と向き合う芸術表現として見ていたことは分かります。

そう考えると、西武美術館から始まった文化事業と映画とのつながりも見えやすくなります。美術、文学、音楽、演劇、ファッション、デザイン。それらを一つの作品の中に取り込みながら、時代の空気まで観客へ届けられるのが映画です。

「今という時代に、何を見るべきか」を生活者へ提示しようとしたセゾンにとって、映画は非常に相性のいいメディアだったのではないでしょうか。

映画館をつくるだけでは終わらなかった

シネ・ヴィヴァン六本木のオープニング作品は、ジャン=リュック・ゴダールの『パッション』でした。その後も一般的なロードショー館とは明らかに異なる作品が並びます。

しかしセゾンは、映画館をつくって作品を上映するだけでは終わりませんでした。

1984年には映画会社シネセゾンを設立し、海外作品の買い付けや配給へ進出。さらに自ら映画製作にも踏み込んでいきます。

1986年には、当時まだ無名だった林海象の監督デビュー作『夢みるように眠りたい』をシネセゾンが配給しています。全編モノクロで、サイレント映画を思わせる異色の自主製作作品です。

普通なら商業性を考えて躊躇しそうな作品にも、「面白い」と感じれば場所と流通を与える。その姿勢は、西武美術館でまだ知られていない作家を紹介していたことと、どこか重なります。

「セゾンで文化の仕事がしたい」

この熱気は、堤清二一人のものでもなかったようです。

1987年に西友へ入社し、その後銀座セゾン劇場で働いたスタッフは、当時約300人いた大卒新入社員のうち、半数ほどが文化関連の仕事を希望していたと回想しています。

シネ・ヴィヴァンやWAVE、シネセゾンに憧れ、「セゾンで文化の仕事がしたい」と考える若者がそれだけいた。企業が文化を発信するだけでなく、その文化に惹かれた人材が企業へ集まる循環まで生まれていたのでしょう。

シネ・ヴィヴァンで出会う、もう一つの映画文化

シネ・ヴィヴァン六本木で上映された作品の中には、フランス映画社のBOWシリーズ作品も多くありました。

自分たちが価値を認めた映画を世界から選び、日本へ届けていたフランス映画社。その作品を観客が受け取る「場所」の一つが、シネ・ヴィヴァンでした。

ここでは、映画を選び運ぶ側と、出会いの場をつくる側という、異なる方法で映画文化を支える二つの力が交差していました。

テアトル東京の跡地に、ホテルと劇場と映画館をつくる

その象徴の一つが、銀座一丁目でした。

かつて巨大な湾曲スクリーンを持つシネラマ劇場「テアトル東京」があった場所に、1987年、銀座テアトルビルが誕生します。

そこには高級ホテル「ホテル西洋 銀座」、銀座セゾン劇場、そしてミニシアターの銀座テアトル西友が入りました。

映画館一館をつくるのではなく、ホテル、演劇、映画を一つの建物に集め、そこへ行くこと自体を一つの文化体験にする。映画を単独の商品として考えていなかったセゾンらしさが、ここにも表れています。

なぜ『帝都物語』に「西洋環境開発」が?

そもそも、この記事を書くきっかけになったのは『帝都物語』でした。

1988年公開の『帝都物語』のスタッフクレジットには、「企画協力 西洋環境開発」という、映画会社らしからぬ名前があります。翌年の『帝都大戦』にも同じ名前が登場します。

西洋環境開発は、セゾングループで住宅、都市開発、ホテル、リゾートなどを手がけた中核企業でした。同社が両作で具体的に何を担当したのかは、現在確認できた資料だけでは分かりません。

ただ、映画、美術、音楽、ホテル、都市開発までを「生活」という大きな枠の中で結びつけようとしていたセゾングループの姿を知ると、不動産会社の名前が映画のクレジットに現れることも、以前ほど唐突には見えなくなってきます。

資本力が失われたとき

バブル経済が崩壊すると、ホテル、リゾート、都市開発などへ積極的に投資していた西洋環境開発は大きな負担を抱え、2000年に特別清算へ進みます。セゾングループも解体へ向かいました。

1999年にはセゾン美術館が閉館し、六本木WAVE、シネ・ヴィヴァン六本木も姿を消します。銀座セゾン劇場も同じ年に12年間の活動を終えました。

文化そのものの価値が失われたのではなく、それを利益だけで測らず支え続けられる経済的な余白が失われていった。

そう考えると、やはり少しさびしいものを感じます。

セゾンは、フランス映画社のようにはなれなかったのか

ここで、シネ・ヴィヴァン六本木で上映されていた、もう一つの映画文化、フランス映画社のBOWシリーズを思い出します。

フランス映画社は、セゾンとは対照的な方法で映画文化を支えていました。

自分たちが価値を認めた映画を選び、その作品にふさわしい規模で上映し、同じ監督の作品を継続して紹介しながら観客を育てていく。映画そのものを核に、小さく、深く、長く活動した会社でした。

一方のセゾンは、映画を単独の事業としてではなく、美術や音楽、演劇、出版、都市や生活空間まで含めた、より大きな文化構想の中に置いていました。

セゾン文化が次々と姿を消していったことを考えると、「セゾンもフランス映画社のような方法をとれなかったのだろうか」という疑問が浮かびます。

しかし、「なれなかった」というより、最初から目指していたものが違ったのでしょう。

フランス映画社の出発点は、「この映画を、どうすれば日本の観客に届けられるか」。

一方のセゾンは、「どんな文化や生活を提示したいか。その中で映画に何ができるか」という、もっと大きな構想から始まっていました。

映画は、その構想を形にする一つの重要な手段だった。だからこそ、上映だけでなく、配給や製作へも踏み込み、さらに文化に触れる場そのものを街の中につくっていきました。

その広がりこそがセゾン文化の大きな魅力である一方、維持するために大きな資本を必要とする仕組みでもありました。

*フランス映画社も、2014年11月7日に倒産しています。

文化は、お金だけではつくれない。でも、お金がなければ続かない

こうした大規模な文化事業を支えていたのが、当時急成長を続けていたセゾングループの資本力でした。

けれど、文化は資金を積めば意図的につくり出せるものではありません。面白いものを見つける人がいて、それを信じる人がいて、表現する人がいる。そこに時代の空気や偶然まで重なって、初めて文化と呼べるものが生まれるのでしょう。

セゾンには、そのための条件が揃っていました。

思想と、目利きと、資本と、場所。

堤清二という強い思想を持った経営者がいて、その周囲に新しいものを見つける人たちが集まり、それを実現する資本があり、さらに発信するための「場所」まで自分たちで持つことができた。

そのすべてが一つの企業グループの中に揃っていたこと自体が、かなり特別なことだったのだと思います。

文化は、それ自体では利益を生み出せなかったのか

一方で、少しさびしい疑問も残ります。

これだけ魅力的な文化を生み出しても、文化はそれ自体では十分な利益を生み出せなかったのでしょうか。

おそらく、そんなに単純な話ではありません。

一つの映画、一つの展覧会、一つの映画館だけを取り出して収支を計算すれば、大きな利益を生まなかったものもあったでしょう。しかし、それらが積み重なることで、「西武へ行けば何か面白いものがある」「セゾンなら、まだ知らないものを見せてくれる」というイメージがつくられました。

私自身、何十年たった今でもアート・カルチャーの先導役だった「セゾン」という名前に特別な感覚を持っています。それもまた、企業が文化から得た大きな財産だったはずです。

ただ、その価値は決算書の売上や利益には簡単には表れません。

セゾンはなぜ、あれほど映画に夢中だったのか

最初の問いに戻ります。

セゾンが夢中になっていたのは、映画だけではありませんでした。さまざまな文化を通して、新しい価値や生活のあり方を提示すること。その中に映画もありました。

堤清二が目指していたのは、まだ多くの人が知らない新しい価値を見つけ、それを生活の中へ持ち込むことでした。

その中で映画は、映像、音楽、美術、文学、ファッションなど、さまざまな表現を一つに包み込み、時代の空気まで観客へ届けられる特別なメディアだった。

だから映画館をつくるだけでは終わらず、作品を買い付け、配給し、自ら映画を作るところまで進んでいった。

これが、「セゾンはなぜ、あれほど映画に夢中だったのか」という問いに、今のところ私がたどり着いた答えです。

そして、フランス映画社のBOWシリーズのように、小さくても長く映画を届け続けた文化の支え方がある一方で、セゾンのように、資本と思想を一気に注ぎ込み、街そのものを文化の舞台に変えてしまう方法もありました。

どちらが正しかった、という話ではありません。

ただ、文化事業の「成功」は、会社が何年続いたか、いくら利益を残したかだけで測れるものなのでしょうか。

そして、街の文化拠点も姿を変えていった

企業が街の中につくった文化拠点という意味では、セゾンと同じ時代、東急も渋谷を舞台にアートやカルチャーへ力を注いでいました。その象徴の一つが、1989年に開業したBunkamuraです。

コンサートホール、劇場、美術館、映画館など、異なるジャンルの芸術を一つの施設に集めたBunkamuraは、企業が文化の「場所」をつくるという1980年代らしい試みの一つでした。

そのBunkamuraも、東急百貨店本店跡地の再開発に伴い、2023年からオーチャードホールを除いて長期休館に入りました。ただし、文化活動そのものが終わったわけではありません。ル・シネマは「Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下」として営業を続け、ギャラリーや展覧会、演劇なども渋谷の別会場へ場所を移しながら活動を継続しています。

一方、映画館に目を向ければ、2000年代以降、個性的な作品を上映してきたミニシアターの閉館も相次ぐようになりました。シネコンの拡大、デジタル上映への移行に伴う設備投資、観客の鑑賞環境の変化、さらにコロナ禍。それぞれ事情は異なりますが、小さな映画館を維持していくことが容易ではない時代になったことは確かです。

文化を支えていた「場所」は、なくなることもあれば、別の場所へ移り、形を変えて続いていくこともあります。

今では「セゾン」と聞けば、クレジットカードを思い浮かべる人のほうが多いかもしれません。それでも、かつてその名前が映画や美術や音楽や本と結びつき、「次は何を見せてくれるのだろう」と期待させてくれた時代がありました。

そこで出会った映画や音楽、美術を、何十年たった今も覚えている人がいる。

それもまた、セゾンが残した一つの答えなのかもしれません。


* 本記事の作成にあたり、Gemini Deep Research の力を借りました。

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